戦争体験

新世の8月号には、戦争体験がつづられている。悲惨な原爆の事・沖縄での体験などです。私は当時、香川県高松市屋島町東山路に住んでいた。屋島国民学校1年生だ。入学式には「朕思うに、、、、。」を聞いた最後の年代だと思うが。父は戦争の現地に行き、母と姉・私と妹の4人で空襲のたびに逃げまどった。家の中には郡を立ててその上に裁ち台を載せ、またその上に布団をかぶせ、空襲警報が鳴るたびに、その中にもぐりこんだ。焼夷弾と言うやつは、弾がぐるぐる回りながら落ちてくるとか。布団の綿でそれが防げるんだとか、母が言っていたことを思い出す。あの住んでいた家はもうないと思うが、焼夷弾のあとが確かあったと思う。

高松が空襲に遭った夜、夜中にトイレに起きた。外にトイレがあったので、母について行ってもらっていた。ぼんやりとした星空に飛行機が何台も飛んでいるのがわかった。子供なりに、異様さを感じてはいた。どなたかがこの夜中に歩いていて、母と話をしていた。「今日は嫌に飛行機が飛んでる、今夜あたり危ないなー」と。その明け方だった。

空襲警報が鳴って、私は飛び起き、防空頭巾を頭にかぶり、必需品が入れてある鞄を肩から掛けて母と一緒に避難場所に逃げた。避難場所ったって、あいびき川の橋の下なんだけど、、。そこへ行く間に、焼夷弾がピカピカひゅるる、そのたびに目と口を塞いで地面に伏せる。今から考えると態々そこへ行く必要はなかったのかと思う。夜が明けて空襲が済んで、橋の下から出た時は、西の空が真っ赤になって、どこからともなく焦げ臭いにおいがし高松が丸焼けになったことを感じた。屋島の西の方でも火の手が上がっているのが見えた。妹は今聞いても戦争の記憶は一切ないらしいが、母の背中で泣き声も立てず、じっと赤い空を見ていたように思う。  後日談あり続く、、。