戦争体験

ウィキペディア百科事典によると、あれは昭和20年7月4日午前2時59分からの攻撃だった。B29爆撃機だったそうで、同日姫路も空襲にあったようだ。私の記憶にあるように、高松市街地以外でも屋島西・屋島東も被害にあった。終戦までまだ1か月以上もあるなんて、国は何を考えていたのか、、。広島・長崎に原爆が投下されてやっと敗戦するなんて遅すぎる。その間なにを食べて生き延びたのか。私の記憶は何もない。苦しかった困ったといった記憶もない。母のおかげである。もう聞く由もない。

さて、終戦後何日か経って父が戦地から帰ってきた。大きな背嚢を背負って、戦闘帽を被ってゲートルをまいた細い足で、、。玄関に立った父の姿に私は飛びついていった。うれしくて泣いたと思う。背嚢の中に乾パンが入っていた。これもみんなでむさぼり食べた。中に金平糖が何個が入っていて、私は久しぶりの甘いものに飛びついていた。5歳下の妹は、口にしたことのないものだったので吐き出した。

其れからあとは、学校へ行っても先生が「女の子は危ないから、進駐軍の兵隊さんを見たら逃げるように」と教わった。今まで使っていた色刷りした教科書は廃棄され、わら半紙に小さな活字で印刷された本に変わった。糠パンが配給になった。これは食べられなかった。靴も配給でくじ引きだった。親指のあたりに穴が開いた靴はましで藁草履の作り方を学んだ。運動場はサツマイモが植えられた。サツマイモを誰かが掘って収穫した後を子供たちで見て回った。時々結構大きいのが残っていて、大収穫だったと喜んだ。こんな日々が2年ほど続いた。サツマイモの弦も食べたよ。なんだかおいしかった。続く